松山 城散歩

松山城の歴史

※2017年6月29日現在の情報です。

ここでは松山城の築城に関わった人や、現在に至るまでの歴史。
そしてお城にまつわるお話を紹介します。

松山城築城

松山城は別名を金亀城(きんきじょう)、勝山城とも呼ばれ、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一人、加藤嘉明(かとうよしあき)が1602年(慶長7年)に築城に着手しました。
嘉明は元々松前十万石の城主でしたが、1600年の関が原の戦いでの功が認められ、二十万石の大名になり、居城を勝山(味酒山)に移しました。
因みに松山と言う呼び名は、1603年嘉明によって正式に定められました。
この時築城を任された、足立半右衛門重信(あだちはんえもんしげのぶ)が、毎年氾濫により被害を出していた石手川と、伊予川(重信川)の治水も行い、城下町の発展にも貢献したといわれています。

       

城主の変遷

嘉明は城の完成直前の、1627年(寛永4年)陸奥国会津藩40万石に転封されました。
同年、新たに城主となった蒲生忠知(がもうただちか)が二の丸を完成させますが、入城後7年で参勤交代の途中で病死し、1635年(寛永12年)松平定行が藩主となり、1642年に五重であった天守が三重に改築されたと言われています。
その後、松平家は初代藩主定行から明治維新後の15代勝成まで続きます。

       

築城から現代

東塀と天守

長い歴史の中で、落雷などにより、焼失を繰り返しますが、1935年(昭和10年)天守を含む35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定されました。
しかし、1945年(昭和20年)松山空襲で天神櫓、太鼓門一帯、乾門一帯を焼失、1949年(昭和24年)には、放火により筒井門、東続(やぐら)、西続櫓の3棟を焼失します。
1950年(昭和25年)に天守を含む21棟が、国の重要文化財に指定され1968年(昭和43年)には国宝指定作業で正確な図面が残されていた為、本壇の建造物を木造にて復興されています。

       
      

松山城と文学

松山城は、1950年(昭和25年)には、天守を含む21棟の建造物が重要文化財に登録され、1989年(平成元年)には城山公園が日本さくら名所100選、2006年(平成18年)に日本100名城(81番)、また2007年(平成19年)には、美しい日本の歴史的風土100選に道後温泉と共に選定されるなど建造物の希少性と共に、景観の美しさも評価されています。
そんな松山城を、詠んだ俳句も多数あります。

門前や 何万石の 遠かすみ ⁄ 小林一茶

春や昔 十五万石の城下かな ⁄ 正岡子規

お城以外にも松山を読んだ俳句は沢山あり全てはご紹介できませんが、句碑等が市内に点在しているので、そこを巡ってみるのも面白いかも知れません。

       

松山城築城

城主の変遷

築城から現代

松山城と文学